私は普段、移動中にヘッドホンで
音楽を聴く習慣がありません。
てゆうか、ありませんでした。
その習慣を変えたのが
映画「ジャッカル」のサントラです。
「ジャッカル」を見ようと思ったきっかけは
私の好きなプロディジーの音楽が
使われているからだったのですが、
ビデオを見て音楽がすごく気に入りました。
てゆうか、夢中になったんです。
久しぶりでした、こうゆうの。
で、デジロックやテクノやハウスや
その他何てジャンル名かわからない
そうゆう音楽を
いろいろ聴くようになりました。
で、ずうっと聴いていたいと思い
MDに集めてイヤホンして移動するように
なってしまったわけです。
ところがこのMD、ほとんど家では聴かないのです。
私の部屋には合わないのです。てゆうか・・・
部屋でゆっくり音楽を聴くのはだいたい夜です。
キャンドルを灯して一杯やりながら
ビョークやジョージ・ハワードを聴くのです。
新宿の夜景を眺めつつ。
デジロックは外の音楽、東京の街によく似合う音楽。
地下鉄や雑踏や喧騒に似合う音楽です。
おかげで移動中のイライラがずいぶん解消されました。
これは大変なことです。
人込みが大嫌いな私が、気にならなくなったのですから。
まるで雑踏が音楽を引き立てる為のシーンのように思えて、
歩くことさえその音楽に必要なことに思えてくる。
いろいろなシチュエーションに似合う音楽は
それぞれあると思いますが、それを見つけたときの
うれしさとか幸せって素晴らしいものですよね。
決して音楽がついでにあるわけでは無く、
付け足しでもなく、むしろダイナミックに
感情の動きを助けたり変えたりしてくれる。
ある意味、ばかとハサミと同じというか(おっと)
使い方次第で時には薬のような作用もしてくれる。
音楽を生業としている身としては、
改めて気付かされた、とても大切なこと。
さてさて、私の歌は誰がいつ、
どんなシチュエーションにあわせて
聴いて下さるのでしょう。
そう言えば、20代の頃車を運転しながら
よく聴いていたのは、10ccやPFMや
ピンクフロイドより、なぜかブラック・サバスだった。
やっぱイライラしてたのかなあ。
車、やめてよかった。
ペシミスティックゲーム
スタートボタン、押されちゃったんだ。
このゲーム。
気がついたら、僕が主人公だった。
なんとなく違和感はあったんだ。
面倒なことは次から次へと出てくるし。
逃げたいんだけど、ほんとの逃げ場は見つからなくて。
いつも誰かに見られてるみたいで。
休めないんだ。
じっとしていると、目の前にいきなり敵が現れて。
もういいや、食べられちゃってもって思うんだけど。
どういうわけか生き延びるんだ。
なんで僕はここにいるんだろうって。
なんとかうまくやっていこうって思うけど。
時々自分がどうしようもない嘘つきに思えてきて。
次から次へと現れてくるのは一体
どんなメッセージを持ったキャラクターなのかなあ。
頭の中にまで、僕じゃない誰かの声が
聞こえてくることだってあるし。
ゴールなんて見えないよね。
僕が始めたゲームじゃないんだし。
どうすれば勝てるのか、わからないんだもの。
勝ち方っていろいろあるみたいだけど。
いつまで続くんだろう。
なんのために生きてるんだろうな。
生き延びることにどんな意味があるんだろう。
何もかも面倒になってくる。
どうせ僕がいなくなったからって、
誰も困らないんだし。
ま、両親とかは悲しんだりするとは思うけど。
でも、ひとひとりいなくなったからって、
世の中なんにも変わらないしさ。
もともと生きることに意味なんて
無いんだろうな。
意味があるはずだっていう幻想を
追っかけてるだけなのかもな。
自分が納得できる意味を作り出すために
生きてるのかも。
なんかもう、疲れちゃったな。
なにもかも、もうどうだっていいや。
僕が握っているのはたったひとつ、
「終了」の赤いボタンだけ。
★大木 理紗
ボブ・ディランの言葉
もうずいぶんと昔、TVでアメリカのインタビュアーが
ボブ・ディランにこんな質問をしたのを見ました。
「あなたはどうして、いまだに田舎をまわって
コンサートをしているのですか?」
十分にお金持ちで、とんでもなく有名な彼が
田舎町を回る理由などないだろう、と
言いたげで、いかにもな質問。
答えはこうでした。実に淡々と。
「なんでそんなことを訊くんだ?
井戸掘りは井戸を掘る。何故ならそれが彼の仕事だからだ。
私は歌を歌う。何故ならそれが私の仕事だからだ。」
なんと簡潔な言葉でしょう。
私はぽかーんとしてしまいました。
目から鱗が落ちる、と言うのはこのことでしょうか。
その頃、まだ若かった私は自分のやっていること全てに、
意味や理由を見つけようとしてもがいていました。
なぜ私はこんなことを、とかなんのために、とか
揚げ句に、一体私は何をやっているんだろう、とか。
自分でしかけた罠に、見事に自分ではまっていた訳です。
要するに考えたかっただけだったのですが、
やがて答えが見つからなくて疲れてくると、
運命だ、神が導いたのだ、と思ってみたりする。
人は若いときにはよく「自分は特別だ」と思いたがる。
私は人とは違うんだと思いたくなります。
職業に貴賎はない、と知識としての言葉では知っていても、
どこかで、自分が選んだ職業には特別の私だけの意味がある、
てなことを思いたがっていたのです。
そんなときに聞いた、この見事な言葉。
急に心が晴れ晴れとし、身体が軽くなり、
ははははと意味もなく笑ってしまったのです。
何かを考えすぎると「今、ここ、わたし」「Now I'm here」
からどんどん遠ざかっていきます。
そうするとどんどんつらく、しんどくなってきます。
自分がばらばらになるような感じになります。
現実感がどんどん薄れていきます。
やがて出口の無い迷路にはまりこんだことにさえ、
気がつかなくなるのです。
そして、風と共に去り行く音を発しているだけの自分を、
とても空しく感じるようになる。もちろんこの空しさを
いけないものだと思い込んでいます。だから、この空しさを
埋める保証のように、他人による承認を手に入れなくては、と
感じ始める。あれこれ言い訳を用意し始める。
そして次第に自分を嫌いになっていく。
あーいやだいやだ。
癖というのは、なかなかなおらないものです。
今でも時々、罠にはまった自分に気づいたときは、
あの時のボブ・ディランの飄々とした様子を思い出し、
ははははと笑ってみます。
そして「今」の私に座標を戻すのです。
偉い人ってやっぱ偉いなあ。
★大木 理紗